瀬戸うちの津々浦々はまるで光や風を楽しめる縁側のような場所です どうぞおくつろぎください

春、尾道~追伸「モモ」

尾道を訪れると、お邪魔する古本屋さんがあります。
たいていいつもふらりと立ち寄るのですが、以前からずっと読みたいと思っていた本があり、ここ数日探していたのでその本に出会えるかな?
と期待しながら、その古本屋さんに向かいました。

雨に濡れた傘をたたんで、
登り慣れた階段を登って、、えーと、児童書は、一番奥の棚、、、
「!!!(声にならない声)!!、、、あった〜!!!」
なな、なんとついに!出会えたのです!!!

その本の名は、「モモ」。作者は、ミヒャエル・エンデです。
発行は古く、今から43年前の1976年。

子どもの頃に読書感想文の課題図書になっていた事で知った本でした。

さて、なぜ、今思い出したのか。
それは、あるドラマの中でみかけたからです。
ヒロインの女性が大事なシーンで
手にしていたのが、この本だったのでした。
ひと目で
「モモだ!」と、わかりました。
それから、
どうしても読みたい!と毎日のように思っていたら叶った!
°˖✧なんて、ラッキー!!✩.*˚
そう思ったのと同時に
はるか昔に読みたいと思ったまんま
過ぎ去っていたはずの本が、
今 という時間に目の前に現れたのは
なぜなのか。と思いはじめました。

読みたくなって探したから?
もちろんそうなのですが
でも、本当の理由は
それだけではなかったようなのです。。。

*~~~~~~~~~~~
このお話の主人公は、本の題名である、
「モモ」という女の子。
この物語は、その子をとりまく人々と
時間のお話。
今、第2章の真ん中あたりまで読んだところです。
ここまで読んだ感想は、

《日々の喧騒の中で、無くしたことにも気づかず、見過ごしてしまった落し物をひとつひとつ拾っていくような感じ》

抽象的でわかりにくい表現ですが、この表現はある意味、言い得ているような気もするのです。
そして、物語に出てくる〝時間泥棒〟という、人なのかモノのなのか、
わからない存在に、〝はっ〟と息を飲みます。
読み進めるうち、時間についての様々な捉え方がモモを通して示されてゆくのです。

連日、日々刻々と変化していく国難とも言われる伝染病についての報道を耳にし、今、この国は〝感染の拡大を防止すること〟それのみに躍起になり、人が集まることに対して過敏になっています。
これまで、様々な伝染病が蔓延し、幾度も乗り越えてきた経緯はあれど、この度ほどの厳重警戒は初めてのことと記憶しています。

全国民、誰もが大切で1人でも感染者が増えないために出来ることを
考えての対応がなされているのだからと、頭では理解が出来ているつもり。しかし、なぜか心がモヤモヤとしてしまうのを見過ごすことができずにいます。

たくさんの催しが中止される現実のなか、特にやりきれないのは子どもたちのこと。
学校が突然休校になり、彼らのかけがえのない時間はまるで
〝一瞬にして時間泥棒に盗まれてしまったのと同じ〟
そう思わずにはいられなかったのです。
そうです、まさしく「モモ」です。
モモのテーマになっている〝時間〟のこと。

時間が無い、時間が無いと言いながら、
面倒なこと、手間のかかることは時間の無駄!と唱える登場人物が
この物語には出てきます。
「忙」という字が、心を亡くすと書かれるように、時間に追われ、忙しくなればなるほど、そこにあったはずの心は小さくなってやがて無くなってゆく。と、文字通りそう教えてくれている、
そんな気がするのです。

こと、子育てや子どもの成長の過程にこそ、手間ひまも、丁寧に向き合う時間も必要なのではないかと思えるのです。

大人の決断が奪ってしまった子どもたちの時間。
休校は、一体誰にとっての最善で
本当に苦渋の決断だったのか。

一昨年の夏、西日本豪雨災害で被災した中学校の校舎がやっと完成し、
卒業式は元の校舎で行えることを楽しみにしていた矢先、
帰ってこられるはずだった日からの休校が決定した、というニュースを目にしました。
卒業していく子どもたちは、2週間という短い時しか元の校舎では過ごせないという状況でも、
思い出の校舎で、卒業式が出来るからよかったとおもってたんだけど残念です。」と、インタビューに答えていたのがやけに心に焼き付き、、、
なんとも言えない
やり場のない悔しさが、込み上げてきました。

被災した方々が、ぐっと堪え続けて、やっと叶うと思った希望が叶わなくなってしまった現実。
他にも、様々なスポーツの全国大会もたくさんの中止が決まり、力と技と青春の熱をその時間へ照準をあわせ、積み上げてきたその思いを、、、どうすればいいのでしょう。
今日までの道のりの中に培い、養われたものはすべて自分の時間を重ねた証です。
いわば、大舞台で発揮するために一生懸命してきた時間貯金。
お金ならば取っておいて、あとで使えばよいのかもしれません。

でも、時間は、今、この時に使うため
厳しさや苦しさを乗り越え、ここまで大事に蓄えてきたのです。悔しくてやるせなくて、歯を食いしばるしかないのでしょうか。

そうは言っても、「もし、感染が拡大して大変なことになったらどうする?!」と、考えてしまう。そうすると、
「行わなければ大事には至らないだろう。」そう考える。
そうして、中止にしてよかったことにする。行わなかったのに感染が広がったとして、「おこなっていたら、こんなことでは済まなかったはずだ」と言うために判断をするのでしょうか。

仕方ないこと、どうしようも無いこと、
どうにもならないこと

現実にはたしかにあるとおもいます。
でも、だけど、
出来事に対して人が思いをかけて行う行動というのは、
良いか、悪いかのなかだけには収まりきらない部分がある。
そうおもうのです。

子どもたちにとって
3月という時間は、卒業や進級、次の新しいステージへ踏み出すための荷造りをするような時間であるように思います。
大切な思い出や、新しい希望、
そして、友と過ごし紡いだ、かけがえのない絆を自分の未来へ上手に持ってゆかなければなりません。その、無くすべきではなかった時間を省き、取るものも取りあえず子どもたちは新しい場所へと向かわねばならなくなってしまった。

モモにこのタイミングで出会い、
〝人生の時間〟について考えるきっかけを、手にしたことは偶然だとは思えないのです。その人の、この時代の、一生の中の現実として、なくなってしまったこの時間。
だからといって、子どもたちに諦めさせたくはない。
時間は、自分のために、皆に同じだけあるけれど、それは永遠ではなく、輝かせるも持て余すも、すべて自分にかかっているということを、仕方ないの一言で諦めないでいて欲しいと思うのです。

不測の事態が起きている今、私たち大人が子どもたちに心を寄せることで、なにかできることは無いのだろうかと考えてばかりの日々が続いています。
声のボリュームの大きい人の言葉だけが通るような、これからであっては決してならないと思うのです。
現場現場の声を聞いて、臨機応変な対応をしていくことこそ今、必要な事なのではないでしょうか。

はてしない物語もエンデの作品で、映画、ネバーエンディングストーリーの原作になっています。
エンデは随分昔から、時間について人々の心を動かす術をこんなにわかりやすい形で知らせていたんだと思うと、
私は、この本をはじめて知った時に読まなかったことで、自分で自分の時間を盗んでしまったのだという思いがしました。

読みたい本はそもそも、古本屋さんではなく、本屋さんに行けば、、、もっと言えば、注文したり取り寄せてもらえば手に入ります。
わかっているけど、古本を愛する理由がひとつ。
それは、誰かが一度はこの本から何かを感じ取ったということに
惹かれるから。
この世界は人と人とで、出来ているから。

時間を忘れて、あたたかなひざしと、
やわらかい風のなかで本を読む贅沢。
瀬戸内の縁側なら、それもきっと叶うと思います。
今度は、お天気のいい尾道へ、お気に入りの本を持って出かけてみたいと思います。

それでは、また。

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